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BE KOBE神戸の近現代史

神戸の戦災復興 (詳細)

神戸の戦災復興

昭和20年(1945)8月15日、日本はポツダム宣言を無条件受諾し、降伏した。満州事変からはじまった15年におよぶ戦争が終わった。神戸市は度重なる空襲を受け、市街地の6割は焼失・壊滅し、人口は昭和14年10月の100万人から昭和20年11月には38万人にとその4割に減少した。鉄道・道路は寸断され、電気・ガス・水道などのライフラインや神戸港は、施設の爆破・焼失・分断により甚大な損失を受け、ほとんどの機能が停止状態であった。

当時の神戸市長は、終戦の少し前に就任した、中井一夫であった。市長は、敗戦による市民の動揺と混乱を防ぐため、広報「神戸市民時報」で市民に向けての告諭を載せた。市長は、市民への食糧確保、廃墟となった街の復興、占領軍対策のため市役所の機構改革を行った。兵庫区松本通への市役所庁舎の移転が認められるとともに、戦時中市内各所に分散していた各庁舎が、市立第一高女と湊川勧業館などに集められた。戦後の新しい時代、民主主義時代に対応するため、外務課・文化課・民情室が新設された。外務課は占領軍対応窓口として、文化課は文化行政推進のため、民情室は市民の悩み苦情を聞く「よろず相談所」として設けられた。

昭和20年は、コメの凶作の年で全国的に主食の配給の遅配・欠配があった。戦後まだ、「食糧管理法」による配給制度は続いていた。神戸市では食料の遅配・欠配はなかったが、海外からの引揚者、復員軍人、避難先から戻る人の増加で食料不足が切迫していった。

飢えに苦しむ人達は、三ノ宮駅から神戸駅東側に続く高架下にできたヤミ市(主食、生鮮食料品、日用雑貨、古着が売られていた。)やそごう百貨店(現神戸阪急)西側にできたジャンジャン市場と呼ばれたバラック建物の飲食店で飢えをしのいでいた。

終戦時、罹災市民のほとんどが家屋を焼失し、かわりのバラック住まいを強いられていた。又、空襲により、市街地のほとんど全域に被害が及び、昭和16年11月の住宅数に比較すると、家屋は44.7パーセントに減少してしまっていた。

政府は応急簡易住宅30万戸の建設計画を立てたが、戦災者・引揚者の越冬はおぼつかない状態であったので、政府は「住宅緊急装置令」を公布し、神戸市は罹災者・引揚者用の住宅として国民学校や兵舎等を転用し旧建造物の改造に着手した。昭和21年(1946)以降は、神戸市、兵庫県、住宅営団による市営住宅の建設が行われた。

連合国軍(実質的にはアメリカ軍)が日本に進駐し、東京に連合国総司令部GHQが設置された。ここにサンフランシスコ講和条約が発効する昭和27年(1952)4月までの6年余り、日本は連合国占領下に置かれ、GHQによる間接統治方式による占領政策を受けることとなった。この間接統治とは、連合国最高司令官、アメリカのダグラス・マッカーサーが直接日本国民に命令を下すのでなく、覚書などの指令を終戦連絡事務局などを通じて日本政府に伝え、日本政府がそれを法律・命令・規則などに法令化して都道府県庁に伝え日本国民に実行していくやり方である。終戦連絡事務局とは、日本政府が占領における受け入れ体制を含む、終戦事務に関する一切の事務をさせるため外務省の外局として設置したものである。

ポツダム宣言は、軍国主義の排除、日本政府が「日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去」し、「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権を確立」するよう求めた。それを踏まえGHQの占領政策基本目標は、「日本が再び世界の平和及び安全に対する脅威とならないためのできるだけ大きい保障を与え、又、日本が終局的に国際社会に責任あり且つ平和的な一員として参加することを日本に許すような諸条件を育成する」こととなった。

GHQは非軍事化のため、武装解除、戦犯裁判、賠償、軍事施設の解体、戦時法令の廃止などを行った。民主化については、政治では、まず日本国憲法の公布施行により、国民主権、戦争放棄、基本的人権の尊重に基づく政治体制がつくられ、憲法第8章に地方自治の保障とそのあり方が示された。また、選挙法改正により、初めて女性に参政権が与えられた。経済では、財閥解体、労働運動の自由化、農地改革が行われるとともに、教育では、昭和22年に教育基本法・学校教育法が制定された。

神戸では、昭和20年9月25日に占領軍の進駐が始まった。神戸に進駐したのは、地方軍政部である。地方軍政部はGHQの占領行政の実行とその政策が日本国民に順守されているか監視確認することを担っていた。

兵庫軍政部は兵庫県会議事堂に置かれ、生田区(現中央区)海岸通の神港ビルに神戸基地軍司令部が置かれ、CIC(対敵諜報部隊)は葺合区の池長美術館(現神戸市文書館)に置かれた。

占領軍による接収は不動産から動産まで、廃墟となった街の数少ない建物(前記も含む)、土地、道路、施設、工場、倉庫、運動場、ピアノ、美術品など多岐にわたった。

また、港湾施設の7割が接収され、大規模土地の接収として神戸税関前の土地はイースト・キャンプ、神戸駅北の土地はキャンプ・カーバーと呼ばれ巨大な土地の上に占領軍専用宿舎と関連施設が建設された。兵庫区切戸町の土地はスクラップヤードと呼ばれ、スクラップの堆積場として使われた。これらの土地の接収は、昭和31年(1956)まで続いた。接収解除された後は、この土地は神戸市の復興土地区画整理区域になるので、そこから整理事業がはじまることなるが、個々の土地権利者は生活再建が遅れてしまった。

昭和20年(1945)11月に国は復興を要する戦災都市として、神戸市、御影町、魚崎町、住吉村、本庄村、本山村を指定した。この市町村は都市計画上の区域として、一体として扱われることとなった。国は、指定した都市に対して全面的に援助を行うため、内務省に戦災復興院を設置した。

昭和20年12月に「戦災地復興計画基本方針」が閣議決定された。その基本的考えは次のとおりである。「戦災地の復興計画は、産業の立地、都市および農村の人口の配分などを合理的に勘案することにより、過大都市を抑制するともに、地方中小都市の振興を図ることを目的として、各都市の特性とその将来の発展に即応して樹立せらるべく、特に復興計画の基礎となる土地整理に関する事業は、その性質上これを急速に実施すべきである。」(建設省編 戦災復興誌第一巻より)

これは、この復興事業は単なる原状復帰でなく、未来にむけての新都市建設をめざすものであり、この計画は土地整理事業が大きな柱となることを示唆している。

昭和20年(1945)11月に神戸市において神戸市復興本部が設置され、本部長に中井一夫市長、副本部長に前内務省神戸土木出張所長の原口忠次郎(後に神戸市長)、民生局長に坂本勝(後に兵庫県知事)が就任した。そして、復興に関する重要事項を企画・審議するために本部長の顧問機関として神戸市復興委員会が設けられた。委員会には、勝田銀次郎(元神戸市長)、佐藤栄作(当時大阪鉄道局長、後に総理大臣)などが委員として計画の策定にあたり各方面の意見を取りまとめた。

昭和21年(1946)3月に「神戸市復興基本計画要綱」が定められた。この要綱は神戸市が戦災復興事業を進めるにあたっての基本姿勢を示したもので、罹災地域の復興計画をはじめ、神戸市の都市としての性格づけ(原文では、「国際的貿易海運都市とし、これに付随して商工業都市、文化都市、ならびに観光都市たる性格を併有せしむるものとす」)、あるべき市の規模、土地利用計画、幹線街路、細街路、緑地、広場、公共施設の配置計画などが定められた。

そしてこの要綱には、「既往に存したる都市的弊害を除去し都市の能率、保健、防災、および美観を一段と発揚」することを目的とした、単なる戦災からのもとへの復旧でなく、新たな都市づくりをめざすものであった。

それまでの神戸の街のイメージは港と造船と鉄鋼の都市であったが、この計画は、従来のものプラス複合機能を併せ持つ新しい都市になることを目標とした。人口増加を見据えた、近隣市町村との合併、神戸駅周辺を行政の中心エリアに、三ノ宮駅周辺を産業金融の中心エリアにする。私設鉄道を相互乗り入れさせるための地下式高速電鉄の敷設。高速道路の新設、飛行場の設置等々。廃墟のなかでのこの計画は、未来を見据えたものであった。この計画の立案責任者の原口副本部長は、後に神戸市長となりこの事業に長きにわたり取り組むこととなる。

国の方針として戦災復興計画に関わる事業は、市街地の基盤整備でもある土地整理がまず優先となり、その他の都市設備等の事業については、長期にわたるものとして、逐次実施していく考え方であった。計画の基本方針は、まず都市の性格と将来の姿を見据えた、土地利用計画が設定される。次にその中心事業として土地区画整理事業が進められ、それにより新しい街路や緑地が生まれ、都市の骨格が造られる。そこに土地利用計画をふまえた主要な施設が設置されつつ、付随して電線などの地下移設、上下水道の新設改良、ごみ処理施設、火葬場の建設、さらに建築規制による市街地の不燃化、防災強化が都市づくりとともに整備されていく流れになった。

戦災復興事業の実施期間は、昭和20年のがれき撤去から昭和38年までを一区切りとし、18年の歳月に及んだ。この間を前期・中期・後期と3つの時期に分けることができる。

前期は、昭和20年の応急対策から24年までの復興事業の開始期である。21年9月に特別都市計画法が制定され、それに基づく戦災復興土地区画整理事業を柱とする復興計画を立案。その実施のための諸手続き、機構の整備を行っていたが、資材不足、戦後インフレによる物資価格の高騰、厳しい財政状況、また、占領軍による接収などの制約から計画変更・事業の縮小となった。

中期は、昭和24年から30年までの、戦災復興事業再検討の時期である。政府は当初計画どおりの実施は困難と判断し、戦災復興事業再検討5カ年計画を打ち出した。これにより、施工面積の圧縮、都市計画道路・公園の計画変更がなされ、その内容は最小限の骨格的なものとした。しかし、これでも国庫補助が引き下げられ、さらに、朝鮮戦争による特需景気で物価上昇が起こり、戦災復興事業費の枠はたちまち不足をきたすようになった。また、昭和25年(1950)4月1日に御影町、魚崎町、住吉村、さらに同年10月10日に本庄村、本山村が合併して東灘区が発足し、これらの地域も神戸市が復興事業の実施責任を持つこととなった。

後期は昭和30年から33年までの戦災復興事業収束の時期である。神戸市は、事業を早く終わらせるため、昭和31年に神戸市復興促進協議会を設置した。協議会では、国の戦災復興事業費の打ち切り、都市改造事業の開始をふまえ収束計画を作成し、それに基づいて既定の土地区画整理の事業予定面積の縮小が行われたり、駅前広場計画の変更が行われた。

こうして戦災復興事業としては、収束を迎えたが、残された主要な事業は昭和34年以降の戦災関連都市改造事業で引き継いでいくこととなる。

昭和29年5月20日土地区画整理法が公布、昭和30年(1955)4月1日施行され、これにより戦災復興区画整理事業の根拠法、特別都市計画法が廃止となった。この後の戦災復興土地区画整理事業は、土地区画整理法第3条第4項の行政庁施行事業として、引き続き実施されることとなった。

コラム記事

コラム

占領期における接収

神戸市域は甚大な空襲被害により戦災都市指定されていたが、その戦災復興の過程において1945年9月末から連合国進駐軍による接収がはじまった。神戸市は、全国的にみても接収の影響が大きかった都市であった。連合国進駐軍は接収した中央区の神港ビルに神戸基地軍司令部を設置した。連合国進駐軍は日本の武装解除のため旧日本帝国陸海軍関係施設(飛行場、港湾施設、貯油施設、通信施設、兵舎など)と軍需工場を接収した。それらに加えて、連合国進駐軍の駐留のために必要な不動産や動産を接収した。

土地の接収は大規模におこなわれ、三宮税関前付近の接収土地31.6ヘクタールはイーストキャンプとして、神戸駅前付近の接収土地10.3ヘクタールはウエストキャンプとして米軍兵士の宿舎・関連施設が建設された。兵庫区の切戸町付近の接収土地13.6ヘクタールはスクラップヤードと呼ばれ、スクラップの堆積場となった。その他は港湾施設の7割をはじめ、須磨区の武庫離宮跡(現須磨離宮公園)、中央区の東遊園地、長田区の市民運動場(現西代蓮池公園)、須磨区の鷹取野積所、灘区の六甲ハイツ、六甲ゴルフ場、再度山公園の修法ケ原などが接収され、総計2000ヘクタールを超えた。

連合国進駐軍は戦災を免れた公共建築物はもとより、民有のホテル、デパート、工場、倉庫などの不動産、さらに美術品、絵画、ピアノなどの動産も接収した。

接収解除は、昭和26年11月の再度公園であった。昭和27年3月に神戸港のメリケン波止場(国際波止場)、第4突堤が解除となった。昭和28年4月にイーストキャンプのうち9.9ヘクタールが第1次解除、6月に東遊園、7月にスクラップヤードが解除となった。昭和29年にイーストキャンプの約19.7ヘクタールが第2次解除となった。昭和30年9月にウエストキャンプが全面解除。昭和31年12月にイーストキャンプの第3次解除があり、残された接収地もすべて解除された。建物の接収解除も接収地解除と並行する形で徐々に進んでいった。

  • 「占領期の都市空間を考える」 小林 宣之・玉田 浩之  水声社  
  • 『新修神戸市史 行政編Ⅲ 都市の整備』 神戸市 2005年