昭和17年(1942)4月18日にアメリカ軍による最初の日本本土空襲があった。東京市、川崎市、横須賀市、名古屋市、四日市市、神戸市に爆撃機16機が来襲し、神戸にはそのうちの1機が兵庫区に焼夷弾を投下した。
昭和19年6月から8月にかけてアメリカ軍がマリアナ諸島(サイパン・グアム・テニアン)を占領し、基地を建設した。これにより、長距離爆撃B29による本土空襲が頻繁に行われることとなった。
当時の神戸市は、アメリカ軍の資料によれば、「人口100万人の日本の6大都市のひとつで、日本の主要港である。また造船所群は、船舶造船と船舶用エンジン製造の日本最大の集中地域であり、鉄鋼・鉄道車両・機械・ゴム・兵器などの基幹産業は、神戸の輸送活動と密接に関連して立地している。」とされ、重要な戦略爆撃目標の一つとされた。
昭和19年12月15日にB29機が神戸上空に飛来し、工業地帯の空中写真を撮り、12月18日にも神戸上空に侵入し、神戸および兵庫県下の偵察をおこなった。アメリカ軍は神戸地域への空襲の準備をしていた。
神戸地域へのアメリカ軍の空襲が本格化したのは、昭和20年になってからであった。2月4日の兵庫区・林田区への空襲は、それまでの軍事施設や軍需工場の精密爆撃から焼夷弾による市街地無差別絨毯爆撃へと攻撃方法の転換を図る実験的性格をもつとされる。3月17日には、兵庫区、林田区、葺合区を中心とする大空襲で神戸市の西半分が焼失し、5月11日には川西航空機甲南製作所を目標として東部の灘区と東灘区(当時の武庫郡御影町、魚崎町、住吉村、本庄村、本山村)が攻撃された。さらに6月5日には西は垂水区から東は西宮までの広範囲にわたった大規模な空襲を受け、それまでの空襲で残っていた神戸市の東半分が焦土と化した。
6月5日までの大空襲により、神戸市の市街地面積の6割が破壊され焦土化し、工場地帯.住居地帯は、ほどんど、全焼全壊、半焼半壊の被害を受けた。市民生活は崩壊し、都市機能が停止した。この時点でアメリカ軍の資料によれば、神戸市の市街地は焼き尽くしたとの損害判定が出、以後の焼夷弾攻撃目的地域から外されたが、その後も機雷や焼夷弾、爆弾の投下や機銃掃射が続き、神戸市民は日常を失った廃墟のなか、昭和20年8月15日の敗戦を迎えた。
この神戸大空襲による被害を正確に算定することは難しいが、人的被害は死者約7,500人超、負傷者約17,000人にも及んだ。
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神戸空襲1