昭和13年(1938)6月、神戸地方は長雨が続き、7月に入り、梅雨期豪雨の典型的な気候形態を示すようになった。こうした状況のもと、7月3日に風雨が強まり、5日にかけて集中豪雨となった。その結果、市域の各所の急斜面で地滑りやがけ崩れが発生し、大量の土砂が流出した。また、大小の河川が増水・氾濫して、大災害をもたらすことになった。この阪神大水害は、当時の神戸市の面積の26.4パーセントに被害を与えた。その結果、全市の72パーセント超に及ぶ戸数や人口が被害を受け、現在の市域でみると、死亡者443名、行方不明者74名に達した。そして被害総額も1億4千万円を超すに至った。
再びこのような災禍に襲われないために「神戸市百年ノ大計」を樹立する必要に迫られた。そのため神戸市復興委員会を設置し、復興に向けた議論が行われた。大災害の原因は背山の「特異性ナル地質ト、異常ナル豪雨」であることはいうまでもなかったが、その他にもいろいろな原因があり、その一つとして新生田川の暗渠化問題があった。すなわち、新生田川を暗渠とし、その暗渠上を遊歩道としたことが「今次の水害に会して大氾濫の主因となれりとて、非難囂々たるものがあつた」のである。この大水害がその後の神戸市の都市計画に水害問題への対策を不可欠とさせた。
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阪神大水害(昭和13年)