神戸事件は、王政復古によって誕生した明治新政府が最初に直面した外交事件である。
鳥羽伏見の戦いの結果、前将軍徳川慶喜が大坂を捨てて江戸に逃れ、兵庫奉行も江戸に撤収した翌日の慶応4年1月11日(1868)、新政府の命を受け西宮警備に向かうため、三宮神社付近を通過中の家老日置帯刀(ひき(へき)たてわき)率いる備前藩兵が、隊列を横切った外国人に発砲し、負傷させるという事件が起きた。居留地および神戸港に滞在していた英・仏・米の守備隊は直ちに応戦し、翌12日には港内に停泊中の諸藩の艦船と居留地を軍事的制圧下においた。
新政府は動揺し、15日、参与兼外国事務取調掛東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)を勅使として兵庫に派遣し、各国公使と会見した。会見では、王政復古の伝達と、幕府が幕末に諸外国と結んだ条約を新政府も遵守すること、外国人の安全確保などを誓約した。さらに、外国代表の要求を受け入れ、各国公使に陳謝するとともに、発砲を命じた滝善三郎の処刑と家老の日置の謹慎処分を決定した。同日、新政府は神戸の治安確立のため、薩摩・長州両藩に兵庫神戸の警備を命じた。滝の切腹は、2月9日、各国代表見証のもと、兵庫の永福寺にて行われた。
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神戸事件発生地の碑がある三宮神社