昭和31年(1956)、経済白書は「もはや戦後ではない」という名言を記し、日本経済は戦後復興を済ませ、高度経済成長へと離陸しようとしていた。神戸経済も戦前のステイタス回復を目指して、本格的な経済振興策を展開した。
昭和30年(1955)から始まった高度成長で神戸経済も、市街地内の既存工業の回復によって順調に成長していったが、次第に大型化していく新規用地の不足や、戦前からの港湾・工業用地面積の不足が原因となり、息切れを見せていた。
昭和31年(1956)、経済白書は「もはや戦後ではない」という名言を記し、日本経済は戦後復興を済ませ、高度経済成長へと離陸しようとしていた。神戸経済も戦前のステイタス回復を目指して、本格的な経済振興策を展開した。
昭和30年(1955)から始まった高度成長で神戸経済も、市街地内の既存工業の回復によって順調に成長していったが、次第に大型化していく新規用地の不足や、戦前からの港湾・工業用地面積の不足が原因となり、息切れを見せていた。
神戸市の開発事業は、「山、海へ行く」と後に呼ばれるように、山を削って跡地を住宅地とし、その削り取った土砂で海を埋立て産業用地とするという戦略であった。神戸市がこうした開発事業の第一歩を踏み出したのは、昭和28年度にはじまる東部海面の埋立てからであるといわれる。しかし、東部海面の埋立ても当初は大規模な埋立て事業とはなっていなかった。
東部海面の埋立ては、都賀川東部の東部海面第一工区ではじまった。同工区は後に神戸製鋼所灘浜工場の用地となるが、当初は戦災復興にともなう各種工事による瓦礫や廃土、廃材によって埋立てが行われていたものである。しかし、これだけではその量にも限度があり、39万平方メートルの事業面積の埋立て工事は遅々として進まなかった。
神戸の市街地は六甲山と瀬戸内海に囲まれた狭い地域に開けたもので、この狭い地域での発展にはおのずと限りがあった。戦後、国際港都としての発展を目指した神戸市にとって、この地勢は大きな悩みであった。そこで原口市長は一方で隣接町村との合併を進めながら他方で前面に広がる海と背後に迫る山に開発の目を向けたのであった。
この原口市政のもとで東部海面埋立てが大規模埋め立てへと大きく進展するのは昭和33年(1958)以降のことであった。そして奇想天外ともいえる「山、海へ行く」が実行に移されたことで、神戸港の開発はスケールの大きな戦後の港づくりとなり、それはやがてポートアイランド構想へと結びついていくのであった。
工事には、災害をどう防ぐか、深い海での埋め立て工事をどうするかなど、様々な課題があったが、中でも土砂を運搬するにあたり、電車や交通施設などの東西交通網をどう横切るかが難問であった。打開策として、鶴甲山からの地下コンベヤー、高倉山から一の谷の空中コンベヤー、渦ヶ森からの住吉川河床道路など、都市づくりにおける「匠の時代」にふさわしいさまざまな技術の工夫がこらされた。
東西埋立地の完成は、神戸経済にとってカンフル剤となり、特に神戸製鋼所の灘浜工場は、昭和34年(1959)に第1号高炉の完成によって神戸産業の一大拠点を構築した。西部埋立地には、三菱電機をはじめとする基幹産業の進出、また、神戸港の機能を補完する商業・流通基地となった。そして埋立地は、都市基盤用地としてかけがえのない都市空間を創出し、下水処理場、ごみ焼却場、高校の敷地用地など多くの生活施設も立地した。
さらに、山を削り取った跡地には、鶴甲団地や渦森台団地、高倉台団地などが建設され、緊急の課題であった急増する人口のための住宅対策における解決策ともなった。
神戸は神戸港とともに発展した都市であり、神戸港の盛衰はそのまま神戸経済の発展を左右した。また、神戸港は日本を代表する貿易港であり、戦後も諸外国との貿易量が急速に増大していく中、増加する貨物に対処するため、一貫して港湾機能の建設・拡充が続けられた。
さらに、戦後改革の一環として神戸港の管理権が神戸市に移管されたことで、市街地再開発の一環としても、港湾機能の拡充に力が注がれた。
昭和42年(1967)には、日本で初めてコンテナ荷役が摩耶埠頭で行われた。以後、神戸港はポートアイランド、六甲アイランド、ポートアイランド第2期と、続々とコンテナ埠頭を整備し、後背地への連結を強化しながら、名実ともに全国一のコンテナ港としての地位を不動のものとした。
交通施設では、表六甲有料道路が昭和31年(1956)に開通し、以後、裏六甲、六甲トンネルと開通していった。また、阪神、阪急、山陽、神戸の4電鉄を連結した神戸高速鉄道が昭和43年(1968)に開通した。
また神戸港機能の拡充のため、交通網整備によるヒンターランドの拡充が求められ、その最大のプロジェクトが明石架橋の建設であった。当時の神戸市長である原口忠次郎は、明石架橋を「夢のかけ橋」として提唱し、建設へ向けたプロジェクトが展開された。
六甲アイランドのコンテナバース (平成4年)
当時、六甲山系の西の端に位置する標高291メートルの高倉山を140メートル切り下げ、4000万立方メートルの土を削り取る計画が立てられた。山を階段状に切り崩すベンチカット方式で掘削が行われ、ベルトコンベアーで海岸まで運び、そこから海上を輸送した。当時日本最大の幅2.1メートルの高架式ベルトコンベアーが1300メートル余の長さで敷設された。コンベアーの先は須磨海岸で、そこに長さ170メートル、幅9.8メートルの桟橋が設けられ、槽に分け入れられた土砂が艀(はしけ)に投入された。
その後、当時の日本では初めての押船(プッシャー・バージ)方式によって海上輸送が行われた。押船方式は、一般的な引船と比べ操縦性が良く、船舶の往来の激しい国際港湾神戸において、船の航行の障害になりにくい利点があった。プッシャー・バージは「海のダンプ」と呼ばれ、長さ65メートルの艀を二隻並列させて押船で押すものであった。一日二航海の計画で、八船団によって、昭和40年(1965)には一年間に400万立法メートルを超える運搬実績を示し、大きなベルトコンベヤーとあわせて大量の土砂の埋立てが可能となった。
航行中のプッシャー・バージ
原口忠次郎は、昭和24年(1949)に神戸市長に就任し、5期20年の永きにわたり神戸市の戦後の復興、発展に大きく貢献した。中でも、神戸港の管理権を神戸市に移し、神戸港を舞台に発展していく基礎を築いた。原口は「技術屋市長」として、独創的なアイデアを次々に発表し、「山、海へ行く」と紹介された人口島ポートアイランド建設などの開発事業や、公共デベロッパーとして評されるような事業に取り組んだ。さらに、本州四国連絡架橋を提唱し、世界最長の吊り橋として後に完成した。現在、ポートアイランドにある原口記念公園(中公園)には、原口の偉大なる功績をたたえ、顕彰碑が建立されている。
原口市長の記念碑
原口忠次郎は、昭和15年(1940)に東京で開かれた全国土木出張所長会議で、明石海峡汽船連絡・鳴門海峡架橋構想を提唱した。また、昭和30年(1955)に、乗客781人中168人の命を奪った紫雲丸の沈没事故がきっかけとなり、安全な交通手段を建設する現実の政策として本州-四国架橋構想が検討されたのである。その後、建設にあたり神戸市によって様々な調査が行われ、昭和60年(1985)12月、明石海峡大橋の事業化がようやく決定し、61年4月、起工式がポートアイランドで行われた。平成10年(1998)年4月、着工から10年足らずで明石海峡大橋は開通式を迎えた。神戸市の調査から約40年を経て、明石海峡大橋は当時の世界最長の吊り橋として、現実のものとなった。
明石海峡大橋