神戸が大きな発展を遂げてきたのには、やはり神戸港の存在が大きい。外国貿易に適した神戸の港は多くの人々の交流を生み、急速な市域の発展をもたらした。しかし、これらの急速な発展に衛生環境の整備は追いつかなかった。
明治初期の神戸において、居留地については、イギリス人ハートの設計により、市街の整備に併せて下水道は布設され、一定程度の衛生環境は確保されていたものの、一歩居留地を出ると、道路や下水溝はひどい有様であった。
当時の道路や下水溝の掃除は、それぞれの村落の負担として古くからの慣習に委ねられていたため、衛生に対する意識の低かった当時は清潔に配慮することもなかった。また、道路も狭く曲折していたことから、下水溝も不完全で降雨のたびに汚水があふれた。住民も道路や下水溝などに所構わず尿桶などを置き、ごみや馬糞がいたるところに積まれているという惨状であった。
このような劣悪な衛生環境から、感染症の流行を防ぐことはできず、明治10年(1877)のコレラ大流行に直面して、ようやく官民ともに衛生観念の高まりを見せた。しかし、国際都市という神戸の性質上、様々な感染症の脅威からは完全に逃れることはできず、神戸市民は多くの感染症にさらされることとなった。