恐ろしい空襲の記憶

最終更新日:2024年8月19日

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古川輝男さん

私は当時5歳で、それはちょうど朝食を食べる前のことでした。母が「ご飯やで」と家族を呼んだ時、いつもの空襲警報が鳴り響きました。朝食を食べるより先に防空頭巾と甚平を着て玄関を飛び出すと、青空の中に米軍の爆撃機B29の姿がはっきりと見えました。私を含め大勢の人が防空壕に逃げ込んだのですが、一発の焼夷弾が防空壕を直撃。中では火が燃え広がり、ほとんどの人はそこで息絶え、2人の兄も即死しました。
辛うじて防空壕から脱出できた私は、母や姉に守られながら、豪雨のごとく降り注ぐ焼夷弾の中を逃げ回りました。その日はいい天気だったのですが、焼夷弾の火や煙で街全体は真っ暗闇になってしまいました。逃げる途中で、焼夷弾の直撃を受けて即死した人や、防火用水に首を突っ込んだまま亡くなっている人を見ました。焼夷弾の嵐から奇跡的に逃げ延びたものの、母は治療できないほど全身に大やけどを負い、4日後に亡くなりました。その4日間、母はどれだけ苦しかったか、つらかったか計り知れません。私自身も首の後ろにやけどを負い、今でもその痕が残っています。
家族と食事をしたり、友達と遊んだり、そんな平凡な毎日がどれほどありがたいか。日本はもちろんのこと、世界の人たちが武力で命を奪い合うことのない平和を願っています。

広報紙KOBE2018年8月号掲載

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