兵庫の港は、古代から瀬戸内海の良港として知られている。
瀬戸内海は雨量も少なく温暖であるため、農作物をはじめ生産の先進地域となっていた。古代以来、畿内と山陽・九州・四国を結ぶ西日本の物流の大動脈として重要な位置を占め、また近世に入ると、西廻り航路を往来する北前船の寄港地として繁栄した。北前船の往来は水運のさらなる発展を促し、周辺農村部における生産力増加など、地域発展にも重要な役割を果たした。兵庫には各地から商人が集まり、人口が増加した。
兵庫の港は、古代から瀬戸内海の良港として知られている。
瀬戸内海は雨量も少なく温暖であるため、農作物をはじめ生産の先進地域となっていた。古代以来、畿内と山陽・九州・四国を結ぶ西日本の物流の大動脈として重要な位置を占め、また近世に入ると、西廻り航路を往来する北前船の寄港地として繁栄した。北前船の往来は水運のさらなる発展を促し、周辺農村部における生産力増加など、地域発展にも重要な役割を果たした。兵庫には各地から商人が集まり、人口が増加した。
兵庫の港の状況が大きく変わるきっかけとなったのは、嘉永6年(1853)6月3日の黒船来航である。ペリーの来航によって「鎖国」政策が終わり、兵庫開港に関しては、日米修好通商条約第三条において、神奈川・長崎・新潟と並んで開港することが決定した。これによって外国人が自由な居住・貿易を行う地域、「居留地」を開設することが定められた。
明治維新以降、政府が掲げた富国強兵政策の下、神戸経済に大きな影響を与えてきた海運業や造船業も発展し、急テンポで重工業化が進んでいく。神戸はまさに、日本の経済発展の循環の拠点といえる都市だった。
開港以後、大正2年までの45年間に神戸の輸出金額は約380倍、輸入金額は500倍以上増加したが、これは国全体の輸出入金額の増加スピードをはるかに上回る速さでの急拡大だった。輸出より輸入のほうが進展が顕著だったため、神戸港は輸入港としての役割を担っていたことが明らかだった。その要因としては、日本の主要物産である生糸の輸出が横浜港を中心に行われたことや、関西で勃興した工業が使用する諸器械及び用材をすべて輸入に依存せざるを得なかったことが挙げられる。
川崎造船所のガントリークレーン
開港後のほとんどの貿易は、居留地の外国商館を通じて行う「居留地貿易」の形で行われた。居留地貿易では、貿易に関する知識や経験が未熟な日本が、列強と同等の立場で国際貿易を行うことは困難だった。開国まもない日本は、一次産品を輸出し、工業製品を輸入するという、いわゆる発展途上国型の貿易を行わざるを得なかった。
明治後期になるとこうした一次産品の輸出シェアは次第に低下し、代わって工業製品の輸出が急増する。その代表がマッチで、明治中期から大正期にかけての神戸の主力輸出産業として急激な成長を遂げた。
大神戸港の埠頭
輸入に関しては木綿類と毛織物類が全輸入額のほぼ半数を占めていたため、それまで伝統的な手工業生産だった日本の綿糸、綿織物は一時衰退したが、1880年代に入り、紡績業が民間産業として急速に発展し、各地に紡績会社が設立されていくと、やがて輸入に依存していた綿糸の国産化が可能になった。こうした紡績業の発展には、ミュール紡績機など外国製の紡績機の導入が不可欠だったため、その輸入が増加していく。
神戸の貿易取引の増大により、それに関連する新たな諸産業の神戸進出が促された。初期の居留地貿易においては、外国商人がその中心を担い、商工業だけにとどまらず様々なものに影響を及ぼしていく。その後、三井物産や三菱商事などの財閥系商社が進出し、関西系繊維商社の隆興を経て、岩井産業や鈴木商店といった関西系鉄鋼商社が勢いを増していく。中でも戦前において、もっとも影響力を発揮したのが鈴木商店であった。
兵庫・神戸の港は、季節によっては波が高く危険もあった。これを回避するために作られたのが新川運河および兵庫運河であり、新川運河開削の際に大きな影響力を持ったのが、兵庫津の古くからの名士である神田兵右衛門(こうだひょうえもん)であった。明治22年に神戸市制が実施されると、彼は初代神戸市会議長に就任している。また、第一次世界大戦時の神戸は空前の好景気となり、海運業では三大船成金と言われる人々を生み出した。その中の一人である勝田銀次郎は、後に第8代の神戸市長となり、昭和13年の阪神大水害の際には陣頭で復興の指揮をとった。
兵庫地区は北前船を中心とする国内海運の拠点であり、商品流通網の重要な核だった。問屋の流れをくむ店や、海運に関連する業種が多くみられ、小売業では、この地に多く居住していた工場労働者たちのため、生活必需品を扱う店が多数立地していた。他方、短期間のうちに発展した神戸地区では、汽船乗客荷物扱や貿易業者が多く立地しており、洋品店、洋服仕立、洋家具店などの洋風店が目立っていた。居留地が設けられ、新しい業種が進出することで、この地区は我が国に西洋文化を伝える場としての機能も担うようになる。我が国で最初のアスファルト舗装がなされたのも元町だった。「銀ブラ」などと同様に「元ブラ」という言葉も生まれ、元町は神戸を代表する繁華街の一つとなった。
兵庫が生活の匂いのする庶民の街であるとすれば、神戸、特に元町周辺は、ハイカラでモダンな街として発展していく。
貿易取引の増大は、それに関連する新たな諸産業の神戸進出を促した。海運業の発展や港湾関連施設の拡充、港湾運送業の発展や鉄道の整備が進み、また明治維新以後、明治政府は富国強兵策を掲げ、殖産興業政策を推進した。繊維を中心とする軽工業の発展を基礎にして、アジア市場への製品輸出を拡張し、日清・日露の両戦争を契機に急テンポで重工業化の道を歩んでいく。
「元町(通)」という地名が登場するのは、明治7年の5月20日で、「もとのまち」「はじめにできたまち」として親しまれてきた。大正15年、元町通を電飾したら、の意見をもとに、鈴蘭照明灯が完成した。「鈴蘭灯」は歌にうたわれるほど市民に愛され、「元ブラ」という言葉が生まれた。元町は「ハイカラ」な街として、新しいものに飛びつく神戸っ子の感覚に合い、独特の雰囲気をかもしだしていたようだ。
また、多くの人が集い,行き交う「元町」は祭りの舞台でもあり、昭和8年には、アメリカの「ローズフェスティバル」を参考に始まった「みなとのまつり」の懐古行列は大人気を博して元町の名物になった。人々に愛され親しまれた「まつり」は、現在の「元町夜市」や「元町ミュージックウィーク」に受け継がれている。
元町通1・2丁目