明治10年代後半になると、行政事務は次第に繁雑化、増大化していき、行政の肥大化の結果として、市民の側から「区吏の不便は人民の不便」との理由から寄付をしてでも区役所の新設を求める要求があがった。また「区役所と戸長役場との事務は果して如何なる相違あるかを考ふ可し。」と事務渋滞に対する不満から戸長役場廃止要求もあがった。こうして強力なリーダーシップのもとに合理的で強力な行政組織を造り上げる必要に迫られていった。
また当時は松方デフレ下において、もともと貧困者の流入によって膨張してきた都市であった神戸の貧困問題は明らかに深刻の度を増していった。その解決のためにも行政の強力なリーダーシップの下に公共事業の拡大を要求する世論が急速に高まっていった。産業革命に向けての日本経済の胎動期であったことも背景にあった。
政府は、明治21年(1888)市制町村制を公布し、さらに明治23年(1890)には府県郡制を公布し根本的な法の変更を行った。戦後、日本国憲法と地方自治法ができるまでの近代日本の地方制度の骨格をなすものであった。
神戸に適用された市制によって、神戸市は明治22年(1889)4月1日に誕生した。そして同年4月に第1回神戸市会議員選挙が行われ、神戸市最初の市会議員が誕生した。
当時の神戸市域は、神戸区に葺合村や荒田村が編入されて、人口13万5千人、予算規模5万円であった。市制当初の市役所は旧神戸区役所の庁舎であった。場所は東川崎町1丁目(改正により相生町1丁目)に置かれ、選挙により旧神戸区長であった鳴滝幸恭(なるたきゆききよ)が初代市長に就任した。
市長・助役などの選挙や俸給の決定、議事細則の決定、勧業・土木各常設委員会の設置など市行政の骨組みが確立され、明治22年度の予算が可決された。またその後の市制を占ううえで重要だったのは、水道の市営方針の決定と区会条例の制定であった。特に区会条例の制定により、伝統的に存在した葺合・神戸・湊西(そうさい)の3財産区の区会が作られた。