神戸市役所

神戸市トップへ

BE KOBE神戸の近現代史

日清戦争後の都市改造 (詳細)

明治10年(1877)末に51,544人であったといわれる神戸の人口は、明治20年(1887)末には102,841人となり、10年間にほぼ倍になるとともに、神戸港で扱われた輸出入においても、この10年間に倍増となった。日清戦争時の明治27年(1894)末には人口が158,693人になるなど、貿易、産業の目覚ましい発展を遂げるとともに、急激な人口流入がもたらされた。このように神戸港を中心として急膨張を続ける神戸市には、インフラ整備などの都市整備事業が当然必要であった。こうして「神戸市三大事業」と称される上水道工事、港湾修築、湊川付替工事への取り組みが本格化された。

上水道工事

慶応3年(1868)の開港以来、港町として発展を続けてきた神戸にとって、慢性的な水不足や、不衛生な飲料水がもたらす悪疫などの対策が大きな課題であった。神戸の地勢をみると、山々が海に迫る狭い斜面を町は東西に細長く延び、大きな河川も見当たらない。神戸は飲料水の大部分を井戸水に頼っており、夏季ばかりでなく、1年を通して水が不足しがちの状態であったが、港が栄えるにつれて人口が増えると、限られた飲料水はさらに乏しくなり、水質の劣化や汚染につながった。

明治18年(1885)の横浜ではイギリスの軍籍を持つパーマー中佐の設計によって近代水道の布設が始まり、明治20年(1887)に完成した。これが神戸の識者を大いに刺激し、兵庫県がパーマーに神戸水道の設計を委託するなど、神戸市に水道布設の機運を高めることとなった。一方、当時一般の人達の水道布設についての関心はゼロに近かった。これに対し、水道布設は急を要するとの方針を示していた兵庫県は、横浜が新式水道を持ったことによる利益を記した「神奈川県水道事業景況」という一文を作成し、明治21年(1888)4月末に「神戸又新日報」と「兵庫県勧業月報」に掲載、水道問題についての一般民衆の関心を高めようと試みた。しかし、一般民衆からこれといって目立った反応はなく、衆意が水道布設に傾くには至らなかった。水道布設の本格調査実施が神戸市会で可決されたのは明治24年(1891)9月15日であった。これは、明治23年(1890)夏にコレラが市内にはびこり、1,000人に余る死者を出すに至ったこと、また、明治24年(1891)夏にさまざまな感染症の患者が続出、さらにその後再びコレラが流行したためである。パーマーの設計書が作成された明治21年(1888)から4年、神戸市の発展は目覚ましく、かつてのパーマー構想を再検討する必要が生じることとなり、明治25年(1892)7月5日、内務省雇工師英人バルトンにあらためて本格的再設計案の作成を委託した。

明治26年(1893)7月3日、水道布設の基本案が市会を通過し、水道布設認可申請は時を移さず兵庫県に提出された。よって知事は7月14日に副申書を添えて内務省に進達し、同時に国庫補助30万円の申請を内務、大蔵両省に進達した。しかし、予算案が衆議院を通過した後、議会が解散になって未決定におかれる、日清戦争のため国庫補助案の提出がされないなど、認可申請書がいつ貴衆両院を通過するかわからない状態であった。明治28年(1895)4月、日清講和談判が下関で開催され、李鴻章大使との間に条約締結が成立し、平和回復の喜びは全国に沸き上がった。神戸市会にあってもこの機を見逃すはずはなく、その6月、市会は再び国庫補助申請を議決し、ただちに知事あて書類を提出することとなった。明治29年(1896)2月、神戸市水道布設国庫補助案は貴衆両院を通過し、10月28日これの認可状を受けることができ、明治30年(1897)5月28日、待望の起工式が挙行され、紆余曲折を経た神戸市の水道布設工事は本格的に着工されるに至った。バルトンが設計に取りかかった時点から既に4年余の月日が過ぎ、そのままでは実施に移せないほど時代は進み変化していたため、根本的な点で計画を変更しなければならない事態となっていた。凄まじい勢いの物価高騰や、議会の解散により変更案の認可が得られないなどの難問により、一時は工事を中止せざるを得ないほどの窮地に陥ったが、工事全体の完成期が延伸したものの、着実に完成へと歩みを進めた。そして、明治33年(1900)3月24日、工事の全工程は終わっていなかったが、奥平野構場にて通水式が挙行された。通水式は伏見宮殿下をはじめ、大臣、各国領事、貴衆両院議員、その他多数の参列を得て盛大にとり行われた。通水式後、さらなる設計変更や資金調達を経て、明治38年(1905)5月に烏原貯水池が完成したことを最後に創設工事の全てを終え、明治38年(1905)10月27日、烏原貯水池畔において、全体の完成を祝う竣工式が400余名の招待者の臨席を得て挙行された。起工式、通水式、竣工式合わせて3回、いずれもその日が雨天であったことから、「水神の感応としか思えない」と当日の参加者がこぞって語ったという。

港湾修築

明治10年(1877)から明治20年(1887)に、神戸港で扱われた輸出入においても、倍増となった。そして、明治20年から日清戦争前年の明治26年(1893)までに輸出はさらに倍増、輸入は3倍増となり、日本を代表する大貿易港となった神戸港においては、港が果たすべき仕事も著しく増大することとなり、神戸港の機能の整備が重要な課題となってきた。神戸港の築港計画においては、明治4年(1871)に神戸港の初代港長として横浜から赴任したイギリス人ジョン・マーシャル(John Marshall)が港湾の実測による神戸港大修築計画案を明治6年(1873)に作成したが、時期尚早としてとりあげられず、日清戦争後まで、港づくりは極めて部分的な整備に終始されてきた。なお、マーシャルの作成した計画は明治40年(1907)からの第1期修築計画として具体化することになる。明治27年(1894)から税関拡張問題に取り組み始めた神戸市は、明治28年(1895)1月の市会に「本市港湾改正方針調査」が提案されたことに続き、明治29年(1896)4月の市会に「兵庫港海岸改良計画ノ件」が提案されるなど、税関拡張にとどまらず、築港問題にまで発展する。明治30年(1897)には市役所に築港調査事務所がおかれ、築港計画の検討が進められた。築港場所をめぐってはさまざまな計画案が浮上し、明治33年(1900)に計画案がまとまり、内務、大蔵両大臣に提出されたが不成立となった。その後も日露戦争によって中断せざるを得ないなど、本格的な修築工事が始められたのは明治39年(1906)となる。

阪谷芳郎蔵相が原敬内相に掛け合い、大蔵省主導型で実現することを認めさせ、同年九月来神した阪谷蔵相は神戸港修築計画を発表した.12月11日内務省の港湾調査会の承認を得たので、翌年2月修築予算1310万円も帝国議会を通過し、ここに懸案の神戸港築港は実現に移された。

運河開削、湊川付替工事

日清戦争後の時期における大事業としては、兵庫運河の完成と、湊川付替えが挙げられる。

兵庫運河については、和田岬が突出しているために兵庫港の入港に困難を生じているとして、兵庫新川から八部郡駒ヶ林への本線、山陽鉄道停車場までの支線の2本の運河を開削し、中央に船舶繋留所を設置するという計画であった。明治27年(1894)2月には内務大臣の認可も降りていたが、同年3月になって紛議がもちあがった。運河とその周囲に12町歩の田畑を持つ地主が買収価格と補償の点で他の地主と異なる主張をした。地主らの激しい反対があり、これに政治上の権力争いなども加わったが、最終的には調査委員会に付託され、地主に土地収用法が適用されることとなり、地主に好条件を認めたため、開削会社は本線支線の路線計画を変更し、直線を曲線に、支線の幅員10間を8間とし、明治29年(1896)1月にようやく起工式が行われた。当初予定の倍以上の工費が必要になるなど、難工事であったが、明治32年(1899)12月に完成した。

神戸を流れる諸河川は、急流で、平素の水量は少ないが降雨があるとすぐ氾濫し、被害を受けがちであった。湊川もその典型であり、明治7年(1874)6月には堤防工事が行われたこともあるが、本格的な対策にはなっていなかった。湊川付替えを主張する地元の有力者や財界人は、湊川改修株式会社を設立するための発起人総会を明治27年(1894)1月に開いたが、住民らの反対の声は強く、実現の見通しはしばらく立たなかった。しかし、明治29年(1896)8月に発生した大水害により事態は急変した。この水害により湊川の堤防が決壊し、福原町一体は濁水に襲われ、神戸駅前の浸水も2メートル近くとなり、死傷者数百名、流失家屋100余戸、倒壊700戸、浸水8,000戸など、被害は甚大であった。これが湊川付替えを促進することとなり、明治30年(1897)8月に湊川改修会社が設立され、同年11月に起工式、明治34年(1901)8月に完成した。湊川付替えの完了後、明治38年(1905)に旧河川敷の埋立てが完成し、後に「東の浅草・西の新開地」と呼ばれるほどの大歓楽街が誕生することとなる。