日清戦争後の時期における大事業としては、兵庫運河の完成と、湊川付替えが挙げられる。
兵庫運河については、和田岬が突出しているために兵庫港の入港に困難を生じているとして、兵庫新川から八部郡駒ヶ林への本線、山陽鉄道停車場までの支線の2本の運河を開削し、中央に船舶繋留所を設置するという計画であった。明治27年(1894)2月には内務大臣の認可も降りていたが、同年3月になって紛議がもちあがった。運河とその周囲に12町歩の田畑を持つ地主が買収価格と補償の点で他の地主と異なる主張をした。地主らの激しい反対があり、これに政治上の権力争いなども加わったが、最終的には調査委員会に付託され、地主に土地収用法が適用されることとなり、地主に好条件を認めたため、開削会社は本線支線の路線計画を変更し、直線を曲線に、支線の幅員10間を8間とし、明治29年(1896)1月にようやく起工式が行われた。当初予定の倍以上の工費が必要になるなど、難工事であったが、明治32年(1899)12月に完成した。
神戸を流れる諸河川は、急流で、平素の水量は少ないが降雨があるとすぐ氾濫し、被害を受けがちであった。湊川もその典型であり、明治7年(1874)6月には堤防工事が行われたこともあるが、本格的な対策にはなっていなかった。湊川付替えを主張する地元の有力者や財界人は、湊川改修株式会社を設立するための発起人総会を明治27年(1894)1月に開いたが、住民らの反対の声は強く、実現の見通しはしばらく立たなかった。しかし、明治29年(1896)8月に発生した大水害により事態は急変した。この水害により湊川の堤防が決壊し、福原町一体は濁水に襲われ、神戸駅前の浸水も2メートル近くとなり、死傷者数百名、流失家屋100余戸、倒壊700戸、浸水8,000戸など、被害は甚大であった。これが湊川付替えを促進することとなり、明治30年(1897)8月に湊川改修会社が設立され、同年11月に起工式、明治34年(1901)8月に完成した。湊川付替えの完了後、明治38年(1905)に旧河川敷の埋立てが完成し、後に「東の浅草・西の新開地」と呼ばれるほどの大歓楽街が誕生することとなる。